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目次
西のバビロン
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古代メキシコ展
マヤ、アステカ、テオティワカン
祈り、畏れ、捧げた。
【会期】 2023 6.16-9.3
【主催】 東京国立博物館 平成館
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ごあいさつ
前15世紀から後16世紀のスペイン侵攻まで、3000年以上にわたって栄えたメキシコの古代文明。本展覧会では、そのうちマヤ、アステカ、テオティワカンという代表的な3つの文明に焦点を当てます。 王や貴族を中心に、精緻な文字体系や暦を発達させたマヤ文明、その代表的な都市国家バレンケより、「赤の女王(レイナ・ロハ)」を本邦初公開します。軍事力と貢納制を背景に繁栄を謳歌したアステカ文明からは、優れた造形の「鷲の戦士像」や、近年の発掘調査の成果となる金製品などを紹介します。そして、「死のディスク石彫」をはじめとするピラミッドからの出土品を通じて、巨大な計画都市を築いたテオティワカン文明の全貌を明らかにします。 火山の噴火や地震、干ばつなど厳しい自然環境の中、人々は神を信仰し、時に畏怖しながら、王と王妃の墓、大神殿、三大ピラミッドなど各文明を代表する壮大なモニュメントを築きました。普遍的な神と自然への祈り、そして多様な環境から生み出された独自の世界観と造形美を通して、古代メキシコ文明の奥深さと魅力に迫ります。 本展開催にあたり、約140件もの貴重な作品をご出品くださいましたメキシコ文化省ならびにメキシコ国立人類学歴史研究所、そしてご協賛、ご後援、ご協力賜りました関係各位に心より御礼申し上げます。 令和5年6月 日本側主催者
Ⅰ. 古代メキシコへのいざない
今から1万3,000年以上前にシベリアからアメリカ大陸に初めて渡って来た狩猟採集民は、長い放浪を経て大陸を南下し、メキシコに到達しました。数千年かけて彼らは変化に富んだ生態系に適応し、多様な動植物を食料とした定住生活を営むようになります。こうして、各地に農耕を基盤とした多くの民族集団が形成されました。 そのひとつが、前1500年頃にメキシコ湾岸部に興ったオルメカ文明です。ほぼ同じ頃、メキシコ中央高原やオアハカ地域にも中核的な集落が生まれました。首長たちは記念碑的な建造物を築き、天文学、暦法、文字が発達し、やがて都市が登場します。テオティワカン、アステカは、メキシコの古代都市文明の代表的な存在です。
半人半ジャガーの幼児像。前1000年以降の様式である。オルメカはメソアメリカ最古の文明であり、人頭を象(かたど)った巨大な石彫で知られている。
テオティワカンの香炉代を飾った型づくりのマスク。建築壁に似せた鼻飾りと円形耳飾りを装着した、神官か戦士を表している。
つばの大きな帽子を被り、美しいコートを羽織った貴人の土偶。1000年以上経った今でも鮮やかな青色は、マヤ・ブルーと呼ばれる。
頭蓋骨を胴体から切り離し、前頭に毛を挿し込み、目のくぼみに貝殻と黄鉄鉱を嵌めたマスク。死者の世界の主であるミクトランテクトリ髪を表す。
UBARTH
最初の部屋で見所のショートムービーが観れます。
多様な自然環境
活火山が連なるメキシコ中央高原荒密林が広がる熱帯のマヤ低地まで、古代メキシコの諸文明は、多様な自然環境の下で育まれました。鉱物資源に恵まれ、黒曜石や玄武岩は石器に、ヒスイは装飾品などに加工されました。一方で、水不足や食料保存の問題に直面するなど、人々は厳しい自然の力にもさらされました。それゆえ、自然を畏怖し、神々として崇めたです。
ジャガーの頭部を象った土器。メソアメリカでは、ジャガーは王や戦士の権威の象徴であり、神秘的な力を持つものとして崇拝された。
メソアメリカ低地部に生息するクモザルを模った容器。黒曜石を目に嵌める。小型で素早いクモザルは、道化やいたずら者としてマヤの神話に登場する。
熟したトウモロコシの女神であるチコメコアトル神を表した香炉。手にトウモロコシの穂を二重にした形の笏を握る。
トウモロコシの実を細かく挽いて磨り潰すための石皿と石棒。現在でも、トルティーヤを作るために同様の道具が使われている。
天体と暦
農業にとって重要な雨季と乾季を予測するため、人々は熱心に天体を観測しました。太陽、月、金星そして日食や月食の周期までも正確に把握し、365日の太陽歴や、人間の妊娠期間に基づくとされる260日の宗教歴など、様々な歴を生み出しました。
夜空を主題とする浮き彫りの石板。両脇には金星と星。中央にはワシと兵士が表されている。戦争や生贄で亡くなった兵士の魂は、太陽と共に天球上を旅しなければならなかった。
球技
ゴムのボールを使った球技は、頭で打ち合うものやグローブやスティックを用いるものなど様々で、球技場の形も異なります。スポーツとしてだけではなく、人身供犠を伴う宗教儀礼や外交施設を迎える儀式として、古くから行われてきました。
帽子を被り厚い防具を着け球技をする人の土偶である。腰でゴムボールを打つ球技は王侯貴族が重視し戦争や人身供犠とも関連した。
人身供犠
人間を生贄とする古代メキシコの慣習は、「万物は神々の犠牲により存続しており、自らも他者のために犠牲を払うべき」という倫理観に基づくものでした。斬首や心臓の剥奪などの残虐な手法は、国家の覇権の誇示にも利用されました。
Ⅱ テオティワカン 神々の都
前100年頃、メキシコ中央高原の海抜2300mほどの盆地に興り、後550年頃まで栄えたテオティワカン文明。約25km2の都市空間に、最大10万人ほどが住んでいたとされます。その民族、使われた言語や文字などはわかっておらず、謎の多い文明です。 テオティワカンは、当時の人々が信じていた世界観にのっとって建物の配置が定められた、一大宗教都市だったとされます。中心地区には死者の大通りを中心に、ピラミッドや儀礼場、宮殿などの建造物が整然と並んでいます。近年の調査により、最盛期にはメソアメリカのほぼ全域に影響力を持った国際都市であり、各地から人や物が集まる、活発な多民族国家の都だったことが明らかになりつつあります。
Ⅱー1 太陽のピラミッド
死者の大通りに面し、日没の方向を向いて建てられた、高さ64mを誇るティオティワカンで最大の建造物です。西暦200年頃に建設され、その後の増築で現在の規模になりました。地下にはトンネルがあり、その最奥には王墓があったとみられます。王墓の上に建てられた神殿だったのでしょう。 ピラミッド西の広場からは死のディスク石彫が、頂上からは火の老神石彫が、内部からは幼児の生贄のほか生贄儀礼にかかわる異物が出土しました。こうした証拠から、このピラミッドは太陽や火などを象徴し、暦にかかわる儀礼が行われていたと考えられます。
ピラミッドの中心付近で出土。地下に存在したであろう応募に捧げられた奉納品か。テオティワカンで現在確認されている最古のマスク。
舌を出す頭蓋骨の周囲に、放射状のモティーフを配する。鼻には穴が開き、ナイフを刺したとみられる。メソアメリカでは日没は死、日の出は再生を意味するとされた。西に沈んだ(死んだ)太陽を表すものか?
Ⅱー2 月のピラミッド
死者の大通りの際奥にある、テオティワカンで2番目に大きな建造物です。正面には大小の神殿に囲まれた月の広場があり、背後には聖なる山がそびえます。 発掘調査により、このピラミッドは西暦100年頃に建設され、その後50年おきに、一回大きなものへと、6回の増築が行われたことが明らかになっています。増築時には生贄が豪華な埋葬品とともに捧げられていて、その総数は37人におよびます。 付近で出土した水の女神石彫などの遺物から、このピラミッドは月や水などを象徴していたと考えられます。
埋葬墓からは、両手を後ろで縛られた生贄1体と、ピューマやオオカミ、ヘビやワシなどの動物、様々な副葬品が出土した。中心には女性立像が、周囲には首飾りや人物の立像が配された。
エキセントリックとは、細かな剥離により複雑な形を作った石器のこと。埋葬墓からは、羽毛の蛇神を示す蛇形と、嵐の神が持つ稲妻を示すナイフ形が9対出土した。天体や暦に関わる生贄の供物か。
頭にシカの頭の飾り、耳飾り、そして戦士を象徴する円形の鏡を腰につけた人物が掘り出されている。高貴な神官か戦士を表すものか。
ピラミッドの中心部で発見された埋葬の主要な副葬品の一つ。胡座は高貴な人物にのみ許されたことから、生贄に関わる王族を示すものか。
頭の上に火鉢を載せ、火を焚くために用いられた石像。太陽のピラミッド頂上部より出土し、そこでの火や太陽に関わる儀式のためのものとみられる。
Ⅱ−3 羽毛の蛇ピラミッド
死者の大通りの南東に、都市の住民10万人が収納可能な大儀式場があります。その中心神殿が、羽毛の蛇ピラミッドです。マヤ文明の「ククルカン」、アステカ文明の「ケツァルコアトル」と同じ特徴を持つ神の姿が彫られていますが、テオティワカンでの名前は知られておらず、「羽毛の蛇神」と読んでいます。また、時(暦)の始まりを表すワニの姿の神(シパクトリ)をかたどった石彫も並びます。 内部からは、総数200体以上におよぶ戦士の集団生贄墓が、大量の副葬品とともにはっけんされており、ピラミッドの建設時に捧げられたとみられます。
埋葬墓付近より出土した、権力の象徴でもある羽毛の蛇神の頭部が彫られた指令棒。かつての権力を放棄、または軽視する象徴的な行為として埋められたものか。
羽毛の蛇ピラミッドの壁面を飾った大石彫の一部。羽毛の蛇神の波打つ胴体に、創造神シパクトリの頭飾りを配するモティーフが繰り返し彫られる。
羽毛の蛇ピラミッドから発見された地下トンネル
2003年、ピラミッド正面の大広場からピラミッドに向けて延びる、長さ103mのトンネルが発見されました。入口は垂直の穴で、深さは15mにおよびます。降りた先は水平にピラミッドの中心に向かい、その最奥にはおそらく王墓があったとみられます。 トンネルの内部は盗掘されていましたが、それでも多くの遺物が残されていました。王の埋葬や王権に関わるものだったのでしょうか?
農業にとって重要な雨の神である「嵐の神」の姿をした水差し容器。
Ⅱ−4. 都市の拡がりと多様性
発掘調査により、都市の姿が少しずつ明らかになってきました。まず西暦200年頃までに、「太陽」「月」「羽毛の蛇」の三大ピラミッドや死者の大通りなど、都市の中心部が計画的に整備されました。その後、周辺部に集合住宅が建設されます。 その多くは石造で、色鮮やかな壁画で飾られたていました。 また、土器や黒曜石製品、貝製品などの工房跡、他地域からの移民の住居区画なども見つかっています。さらに、国家に従事する戦士の姿も垣間見られ、テオティワカンが多くの機能をもつ国際都市であったことがわかります。
Ⅲ マヤ 都市国家の興亡
Ⅲ−1 世界観と知識
マヤの人々にとって、人生や社会の出来事は神々の行いや天体、山、洞窟などの自然界の事象と深く結びついていました。天体の動きを観察し、それに基づく精緻な暦を作り、都市の広場や周辺に点在する聖なる場所で儀式を行うことは、世の中に秩序を与えるために必要と考えられました。日本や中国の暦に吉凶の日があるように、マヤの暦も人々の運勢に関わっていたようです。 また、人々の行いは、神や先祖の事績を再現するものと考えられ、優れた文字体系を使って書かれた碑文には、王の業績などが正確な日付とともに記録されました。
大きな口を開けた蛇の冠を被り、壮麗な服を着て、円形の王座か椅子に座っている。このような豪奢な服装は、大きな祭祀の際の装いである。王ないしそれに次ぐ高位の男性を表した土偶であろう。
絵文書に登場する体を黒く塗った狩りの神か、その姿を真似た人物を描いたとみられる。双子の英雄が吹き矢で地下世界の敵を倒す創世神話など、マヤの人々にとって、吹き矢の狩りは神話上の英雄の行為をなぞるものでもあった。
金星の基壇と呼ばれる建物を飾っていた彫刻。左側が金星、右側が太陽暦の年を表しており、縦の棒が数字の5を、8つの丸印が8を意味する。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年にあたることを示すと考えられる。
Ⅲ−2 マヤ世界に生きた人々
大規模な農地造成に向かない熱帯のマヤ低地では、都市と周辺部の境界があいまいでした。商業や工芸品制作などの経済活動は都市の住民のみに集中せず、農民もある程度の石器づくりなど行なっていたようです。 また、都市に住む上流階級の人々も政治や外交活動だけではなく、儀礼の執り行いや公共建築の計画など多様な仕事に従事しました。例えばマヤ文字を書き残した書記は、文字の習得のほかにも、天体観察やそれに基づく暦の記録、彩色土器などの美術品の製作や音楽などにも優れていたようです。
Ⅲ−3 都市の交流 交易と戦争
マヤ地域では各地で都市国家が群雄割拠し、盛んな交流が行われました。定期的な儀礼や王の即位の際には他の都市の王や貴族が訪問し、美しい彩色土器などを交換したり、貢物として食料を贈ったりしたようです。また、王朝間で婚姻関係を結ぶことも、重要な外交戦略の一つでした。 戦争では位の高い人物を捕虜にすることが重視され、多くの場合、捕虜は生贄に捧げられました。マヤ低地南部では、ティカルの王朝と、ジバンチェとカラクムルを拠点とする王朝とが二大強国としてライバル関係にあり、多くの都市がその影響下にあったと考えられています。
体を黒く塗り、動物の頭飾りを被った右側の二人の人物が外交使節を表し、左側の鳥の羽の頭飾りを被った人物が二人を迎えていると推測される。宮殿の外交儀礼が描かれたカカオ飲料用の容器と考えられる。
パレンケの中心部と周辺の町をつなぐ道の開通を記念した石彫と考えられる。マヤの各地では、サク・ビフ(白い道)やビフ・トゥーン(石の道)と呼ばれる道が、人々の往来や祭礼の行進に使われたようである。
マヤの人々はヒスイとウミキク貝を珍重した。ヒスイはグアテマラ南東部のモタグア川流域で産出し、ウミギク貝は太平洋沿岸で採取され、各地に流通した。中央のペンダントはトウモロコシ神か。
マヤの人々は、黒曜石やチャートなどで実用の道具以外に祭祀具も製作した。4つの角にみられる人の顔のような造形は、世界の四隅を守る神の姿か。
マヤ地域南西の辺境トニナには捕虜を描いた石彫が特に多く、好戦的な傾向がうかがえる。褌の部分に彫られた文字から、トニナの王に捕えられたアフ・チーク・ナフブ(カラクムルの人の意)であることがわかる。
耳に通された紙の帯は捕虜、左手の旗状のものや右手に掛けられた布は、儀式用の装束を表すと考えられる。儀式を行う捕虜か、捕虜のような姿で儀式を行う神官とみられる。
球技の場面を描いた石彫であり、中央のゴムボールの上にマヤ文字で西暦727年にあたる年が記されている。右が辛くむの王、左がトリニの王であり、両国の外交関係を象徴するものと考えられる。
Ⅲ−4 パカル王と赤の女王パレンケの黄金時代
パレンケは古典期マヤを代表する都市のひとつで、洗練された彫刻や建築と碑文の多さで知られます。その最盛期は615〜683年のキニチ・ハナーブ・パカル王の治世です。 他国の侵攻を受け、荒廃したパレンケの王位に12歳で就いたパカル王は、王宮をマヤ地域有数の壮麗な建造物にするなど活発な建築活動に取り組み、40歳代以降には戦争と外交により周辺都市への影響力を取り戻しました。 ここではパカル王とその一族を中心とした都市パレンケの足跡とともに、パカル王妃と考えられている赤の女王の墓の出土品を紹介します。
パカル王墓内で見つかり、パカル王の姿とする説が強い。頭頂部で髪を結和絵、前方に垂らした形は、トウモロコシ神の姿を真似たものと考えられる。
キニチ・クック・バフラムの即位20周年に彫られた碑文。西暦654年にパカル王が建てた宮殿の近くで見つかり、歴代の王の即位が記される。マヤの人々は優れた書跡を芸術品として愛好したが、本作はその最高峰に位置する。
パカル王の指揮のもと、西暦654年にあたる年に、王宮南部の「地下の建物」が完成したことを記録。18世紀半ば、パレンケを探検したギジェルモ・デュぺにより持ち帰られたため、この名がある。
キニチ・カン・バフラムは、父の王墓である碑文の神殿のほか、パレンケの守護神を祀る十字グループと呼ばれる神殿群を築いた。本石彫はそのひとつ、葉の十字の神殿内、祠入り口のわき柱を飾った。
香炉台
マヤの儀式では香が盛んに焚かれた。パレンケ特有の香炉台には、神や人の頭が描かれた。本作の顔はキニチ・カン・バフラムか。
キニチ・アフカルを表す文字
西暦722年に即位したキニチ・アフカル・モ・ナフブは、トニナに対して劣勢となったパレンケの栄華を取り戻すべく、新たに神殿群を造営する。本作は王の名の前半分、キニチ・アフカルを示す。
キニチ・アフカル・モ・ナフブが造営した19号神殿の漆喰彫刻。マヤ神話のトウモロコシ神の子である英雄、フーン・アハウとみられる。
Ⅲ−5 チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市
9世紀にはマヤ低地南部の多くの都市が衰退し、マヤ文明の中心はユカタン半島北部に移ります。この地域に特徴的である、地下水系とつながる大地の陥没穴はセレーテと呼ばれ、貴重な水源かつ信仰の対象として自身供犠を含む儀礼が行なわれました。 10世紀頃にはチチェン・イツァが、マヤ地域で最大の都市になりました。住民の大半はマヤ人でしたが、トゥーラなどメキシコ中央部を含むメソアメリカ各地との交流を進め、チャクモールと呼ばれる像やドクロを多く描いた基壇など、各地の文化要素を取り入れたとみられています。
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