目次
パリ ポンピドゥーセンター
ーキュビスム展 美の革命ー
2023.10.3(THU)-1.28(SUN)
国立西洋美術館
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ごあいさつ
このたび、世界屈指の近現代美術コレクションを誇るパリのポンピドゥーセンターの所蔵品を中心に、「キュビスム展ー美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ」を開催する運びになりました。 20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという二人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。西洋絵画の伝統的な技法であった遠近法や陰影法による三次元的な空間表現から脱却し、幾何学的に平面化された形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現と見なすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。また絵画や彫刻の表現を根本から変えることによって、抽象芸術やダダ、シュルレアリスムへといたる道を開きます。慣習的な美に果敢に挑み、視覚表現に新たな可能性に開いたキュビスムは、パリに集う若い芸術家たちに大きな衝撃を与え、装飾・デザインや建築、舞台美術を含むさまざまな分野で瞬く間に世界中に広まり、以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。 本展では、キュビスムの歴史を語る上で欠くことのできない貴重な作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品となります。20世紀美術の真の出発点となり、新たな地平を開いたキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを、主要作家約40人による絵画を中心に、彫刻、素描、版画、映像、資料など140点を通して紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる本格的な展覧会はおよそ50年ぶりです。 主催者
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メッセージ ーキュビスムの革命
キュビスムは「模倣の芸術ではなく、創造にまで高まろうと目指す概念の芸術である」と言ったのは、詩人ギヨーム・アポリネールです。キュビスムという運動が、地理的にも、その主題や美学においても多種多様であることを特徴とするからには、この「概念」という言葉を「さまざまな概念」と言い換えることもできるでしょう。そして今日、わたしたちが心から尊重するのは、まさにその芸術的な多様性にほかなりません。 ポンピドゥーセンターと国立西洋美術館、京都市は、キュビスムに関するこれまでにない大規模な展覧会を日本で開催することに誇りを感じています。「キュビスム展ー美の革命ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ」は、ポンピドゥーセンター/国立近代美術館の誇るコレクションより選ばれた100点あまりの作品を中心に構成されており、そこに本店を共同企画した国立西洋美術館を含む日本各地の美術館の重要な所蔵品が加わっています。 本店では、14章の章が連なる長い道のりをたどりながら、1906年から1920年代まで、すなわちセザンヌからピュリスムの時代に至るキュビスムの広範な歴史を紐解いていきます。この運動は1907年から1914年にかけてブラックとピカソを中心に展開しましたが、この二人の先駆者と国際的な後継者たちの名作を通じて、皆様はキュビスムが迎えることになるさまざまな局面を発見することでしょう。それは、西洋の内部とヨーロッパ圏を越えたところにあるキュビスムの複数の源泉に始まり、よりラディカルな、あるいはよりアカデミックな形態への発展、彫刻の再創造やイタリア未来派のような同時代の美学との交差、さらにパリに集ったロシアの芸術家たちによるヨーロッパ全土への波及、そして第一次世界大戦によって引き起こされた離散と最後のピュリスムにおける新展開という、キュビスムの歴史の諸段階です。 本展の開催にあたり、貴重な作品をご出品いただきました美術館ならびに所蔵者の皆様に厚く御礼申し上げます。それらの作品をポンピドゥーセンター所蔵の作品群に加えることで、キュビスムの豊かさと複雑さを、本展で見事に再現することができました。 ポンピドゥーセンター/国立近代美術館前副館長でフランス文化財首席学芸員のブリジット・レアルと、国立西洋美術館長の田中正之の協力により構想され、ポンピドゥーセンター研究員マクシミリアン・タインハルトの補佐により実現したこの展覧会は、ポンピドゥーセンター、国立西洋美術館、京都市、そして日本経済新聞社ならびに日本の主催各社の結束無くして開幕を見ることはなかったでしょう。本展およびカタログを作り上げてくれた日仏チームの尽力に感謝するとともに、本店の実現に向けてご協力を上賜ったすべての皆様に心よりお礼申し上げます。 ポンピドゥーセンター総裁 ローラン・ル・ボン
国立西洋美術館
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1 Sources of Cubism キュビスム以前 その源泉
19世紀後半から20世紀初頭、西洋の絵画や彫刻の表現は、それまでの伝統や規範から抜け出し、大きく変化していました。なかでもポール・セザンヌ、ポール・ゴーガン、そしてアンリ・ルソーはキュビスムの誕生にあたって重要な役割を果たします。ピカソやブラックらキュビスムの画家たちは、彼らの作品の中に、自分たちが探究しつつあった新しい表現の可能性を見出し、それらを跳躍台として自らの芸術を発展させていきました。 セザンヌは、幾何学的形態による画面構成や、遠近法を解体する多視点の導入によって、絵画を写実的模倣から構築的なものへと変えました。ゴーガンは、西洋以外の文化圏にまなざしを向け、「プリミティヴ」とも形容される素朴で大胆な造形を絵画や彫刻にもたらし、ルソーは、正規の美術教育を受けていないからこその自由な表現で描き続けました。 その頃、西洋諸国によって植民地化が進められたアフリカやオセアニアからは、仮面や彫像など、その地の文化の多様な造形物がヨーロッパにもたされていました。ピカソやドラン、ブラックらは、そうした造形物を自ら収集するとともに、西洋美術とは異なる表現のあり方をそれらに見出し、自ら作品に取り入れていきます。
2 ”Primitivism” 「プリミティヴィスム」
ドランやピカソら美術家たちや詩人・批評家のアポリネールは、古代ギリシア・ローマの美術を規範とする伝統に代わる新しい表現の可能性を、アフリカやオセアニアの造形物に見出しました。 こうした地域の美術への関心や、その影響による単純化され、図式化された表現は、「プリミティヴィスム」と呼ばれてきました。しかし、これはアフリカやオセアニアの文化をヨーロッパに比べて「原始的(プリミティヴ)」であると当時の西洋の人々が考えているためでした。アフリカやオセアニアの制作物が「美術」として評価された基準も、西洋の美的価値観によるもので、それらの造形物が持つ本来の文化的意味が理解されていたわけではありません。本来の意味とは関わりなく、これらの造形物は、ヨーロッパの前夜芸術家たちにとって、西洋の伝統的な規範に調整するための拠り所となりました。 1907年にパリの民族誌博物館を訪れたピカソは、当時制作中の《アヴィニョンの娘たち》(本展不出品、ニューヨーク近代美術館かっ)を大幅に描き直しします。この作品を見たブラックは、その過激さに驚き、「まるで麻くずを食べるか、石油を飲んで火を付加と言ってもいるようだ!」と語ったといいます。ブラックは、ピカソへの応答として《大きな裸婦》を描いています。
1907年夏にパリのトロカデロ民俗誌博物館を訪れたピカソは、アフリカやオセアニアの造形物に大きな影響を受け、当時製作中だった《アルヴィニョンの娘たち》を完成させます。その習作の一点である本作では、仮面のような縦長の顔のフォルム、頭部や鼻筋に見られる鮮やかな青や赤の描線などに、ピカソの「プリミティヴィスム」を見出すことができるでしょう。一方ブラックは、西洋の伝統的な「美」の常識をまるで無視したピカソの大胆な裸婦像に衝撃を受け、自らも《大きな裸婦》を描きました。こうして始まった二人の画家の芸術家対話は、やがてキュビスムという大改革を引き起こします。
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3 キュビスムの誕生 セザンヌに導かれて
ブラックは、1906年から1910年までセザンヌが制作した地として知られるレスタックに4回滞在し、セザンヌに応答する作品を描きました。その過程で、彼の作品は、キュビスムの始まりを告げる新たな表現へと大きく変化します。緑や黄土色などセザンヌ的色彩が中心となり、セザンヌを真似て一定の方向性のある筆跡で彩色が施されました。また、単純化された幾何学的形態を用いて、画面は以前よりも構築的に組織されるようになります。 1906年10月に亡くなったセザンヌの大規模な回顧展が翌1907年10月に開催され、若い芸術家たちは自分なりにセザンヌの試みを理解しようと努めました。ピカソもまた、1908年から1907年にかけて、セザンヌを研究し、「セザンヌ的キュビスム」と呼びうる作品を残しています。
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ブラックの絵画は撮影不可の場合が多いけど、今回は貴重!
1906年以降、ブラックはセザンヌゆかりの地である南仏の町レスタックを繰り返し訪れ、同地の風景を主題に多くの作品を残しました。1907年秋のセザンヌ回顧展に、それまで以上に強い感銘を受けたブラックは、再びレスタックに向かい、パリへ戻った1908年初頭に本作を完成させます。回顧展開催中には、「自然を円筒形、球形、円錐形によって扱いなさい」という有名な一節を含むセザンヌの言葉が、画家エミール・ベルナールによって紹介されていました。対象を幾何学的に把握するセザンヌの教えに対してひとつの解釈を示すかのように、ブラックは、橋や家々を立方体をはじめとする簡素な幾何学的形態に還元し、それらを遠近法を無視した浅い空間に積み重ねる、新たな表現に到達します。
4 ブラックとピカソ ザイルで結ばれた二人(1909−1914)
ブラックとピカソが知り合ったのは1907年でしたが、毎日のようにお互いのアトリエを訪れるほど交流を深めたのは、1908年の冬を迎えた頃です。ブラックは、「私たちはザイルで結ばれた登山者のようでした」と、当時の二人の関係について回想しています。 新しい絵画の方法を追求する二人の造形的実験は、1909年夏には、いわゆる「分析的キュビスム」の作品にいたります。対象物はいくつもの部分に分解され、無数の切子面によって構成されたようなモノクロームの画面が登場しました。1910年半ば以降は、描かれているモティーフの識別が困難なほどに作品は抽象化の度合いを増していきます。絵画は何かを写実的に描写するための場ではなく、自律的なイメージが構築される場となりました。 1912年になると「総合的キュビスム」の段階を迎えます。この年にはコラージュやパピエ・コレ(貼られた紙)といった新たな技法が試みられました。画面には新聞や広告の切り抜きなどの異質な素材が取り込まれ、多様な要素を組み合わせて、総合するように作品が作られるようになります。絵画も、そうした紙が貼られたかのようになります。絵画も、そうした紙が貼られたかのように見えるだまし絵的な表現や、平面が重なり合うような構成へと変わりました。
ピカソとブラックによるキュビスムの実験は、単身人物像や卓上の静物といった身近な主題を中心に進められました。1910年までに、二人は色調をグレーや褐色に限定し、対象の形を、陰影のついた細かな切子面に分割して表すようになります。本作では、あえて背景を未完成のまま残すことで、複雑に断片化された女性の身体が、モニュメンタルな存在感を持って強調されています。一方、1910年夏に製作された《ギター奏者》では、対象を、垂直、水平、斜めの直線によるグリッド(格子)に沿って解体し、周囲の空間と結びつける表現へと変化します。こうしてキュビスムは抽象的で難解なものになりますが、ピカソとブラックは抽象的で難解なものになりますが、ピカソとブラックは抽象絵画へは向かわず、絵画と現実との関係を問い続けます。
1912年、ブラックは、画面に新聞や壁紙を貼り付けるパピエ・コレに加えて、総合的キュビスムの展開にとって重要ないくつかの技法を考案しました。油絵具で騙し絵のように再現される木目模様や、砂やおが屑を混ぜて作られる粗い絵肌などが挙げられます。これらはいずれも、ブラックが塗装職人として働いた経験に基づいて導入され、「実物」と「再現」、高級な芸術と日常生活といった境界に揺さぶりをかけるものでした。本作は、ブラックが数ヶ月前に製作した自身のパピエ・コレ作品を絵筆で真似た油彩画で、貼られていた壁紙の木目模様は、家屋塗装業者用の櫛ベラで引っ掻いて再現され、そこに果物やトランプ、文字などが配された重層的な空間が広がっています。
5 フェルナン・レジェとフアン・グリス
ブラックとピカソが創始したキュビスムは、新しい表現を求める若い芸術家たちのあいだに瞬く間に広がり、多くの追随者を生みました。なかでもレジェとグリスに二人は、カーンヴァイラーによってキュビスムの発展に欠かすことのできない芸術家であるとみなされます。 1907年のセザンヌの大回顧展を見た後、レジェの作品は構築的となり、1910年には《縫い物をする女性》のような最初のキュビスム絵画を描きます。レジェは、ドローネーとともに豊かな色彩表現を追求するとともに、「コントラスト(対照・対比)」という概念を自らの制作の原理とし、直線と曲線、色彩同士な様々な要素が織りなす二項対立的構造によって動感のある画面を作り上げ、それは抽象絵画へも発展しました。 スペイン出身のグリスは、1906年にパリに移り、ピカソと知り合います。1911年より本格的に油彩画を描くようになり、《本》に見られるように、彼もまたセザンヌを学ぶことから始めました。鮮やかな色面を組み合わせ、対角線や水平線、垂直的を強調した厳格な構成を持ちつつも複雑な空間を特徴とする静物画を多く描きました。
同郷のピカソが住む「洗濯船」拠点としたグリスは、挿絵画家として活動後、1912年にキュビスムの画家としてデビューします。以後、パピエ・コレや木目模様の描き込みといったピカソとブラックによる様々な発明を吸収し、明晰な構図と異なる質感の巧みな描写、鮮やかな色彩を特徴する独自のキュビスムを展開しました。1913年の南仏セレの滞在を経て制作された本作と《楽譜》は、いずれもカンヴァス自体がテーブルに目立てられ、断片化されたグラスや楽譜、楽器などのモティーフがおり重なっています。緑色のグラスには、フランス語で「ヴェール」と発音する「グラス」と「緑」を掛け合わせた視覚的な「韻」が表されています。
6 サロンにおけるキュビスム
ピカソとブラックがフランスではカーヴァイラーの画廊以外では作品をほとんど展示しなかったのに対し、二人の影響を受けた若いキュビストたちは、おもにサロン・デ・ザンデパンダン(独立派のサロン)やサロン・ドートンヌ(秋のサロン)といった年1回開催される、公募による大規模な展覧会で作品を発表したため、今では「サロン・キュビスト」と呼ばれています。 1911年と1912年のサロンでは、自分たちの作品を同じ展示室でまとめて公開することで、キュビスムは注目の的となり、スキャンダルを引き起こしました。当時どれほど話題になっていたかは、新聞や雑誌の風刺画や映画など様々なメディアで、キュビスムが揶揄の対象にされていたことからもよくわかります。 サロン・キュビストたちは、ピカソやブラック以上にキュビスムを理論化し、グレーズとメッツアンジェは『「キュビスム」について』という著書を1912年に発表します。同年には、キュビスムのグループ展である「セクション・ドール(黄金分立)展も開催され、グレースの《台所にて》や《収穫物の脱穀》、ピカビアの《赤い木》が出品されました。
7 同時主義とオルフィスム ロベール・ドローネーとソニア・ドローネー
アポリネールは、ロベール・ドローネーを「オルフェウス的(詩的)キュビスム」の発明者と呼び、そこから「オルフィスム」という名称が生まれました。オルフィスムは、色彩によって構成された「純粋な」絵画であると捉えられました。 ロベール・ドローネー自身は、妻ソニア・ドレーナーとともに、「同時主義」という独自の概念を打ち立てます。フランスの化学者ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールによる「色彩の同時対照の法則」(1839年)に依拠しながら、色彩同士の対比的効果を探求するものです。 しかし二人の「同時主義」は、単なる色彩論にとどまらず、異質な要素を同一画面に統合する方法であったとも言え、ロベールが描いた大作《パリ市》では、古代(三美神)と現代(エッフェル塔)、アンリ・ルソーの作品から引用など多様な要素がひとつにまとめられています。「同時主義」は空間や動きを表す原理でもあり、それはソニアがダンスホールの情景を描いた《バル・ビュリエ》によく示されています。
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ここのエリアは、1枚の作品が超巨大です!
グレースは、メッツァンジェらとともに1911年春のサロンにおける最初のキュビスムの集団展示を画策し、「サロン・キュビスム」を牽引しました。本作は、1912年のセクション・ドール展に出品された彼の代表作です。画面中央には小麦を収穫する人々、右側におそらく昼食を終えて仕事に戻ろうとする農婦などが描かれています。また、左側に見える円形の換気扇がついた赤い煙突のようなものは、トラクターか脱穀機を思わせ、機械が導入された近代的な農村風景であることが分かります。キュビスムという新しい造形言語によって、農作業という伝統的主題の中に現代性を融和させた本作は、同運動をフランス美術の伝統の延長線上に位置づけ用としたグレースの主張が反映されています。
1900年にパリに出たレジェは、はじめは印象派に影響を受けますが、1907年のセザンヌ回顧展に感銘を受け、形態の幾何学化や単純化を推し進めました。1911年以降、「サロン・キュビスム」を代表する画家として活躍し、円筒形(チューブ)を多用した独自の表現によってキュビストではなくチュビストとも呼ばれました。1912年のサロン・デ・ザンデパンダンに出品された本作には、街中を行進する結婚式の行列が描かれています。中央にピンクがかかったドレス姿の花嫁とタキシード姿の花嫁がおり、人々の手や頭部の断片が二人を取り囲んでいます。鮮やかな色面の導入や、行列のダイナミックな運動感により、結婚式の祝祭的で活気溢れる様子を伝えています。
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キュビスト(立体的)ではなく、キュビスト(チューブ的)?
1911年春のサロン・デ・サンデパンダンにおける最初のキュビスムの集団展示に参加したドローネーは、翌年の同サロンにはパリの町とエッフェル塔、中央には古典的な三美神を思わせる裸婦が描かれています。エッフェル塔はロベール自身の作品の引用でもあり、また左側の船と橋のモティーフは、敬愛するアンリ・ルソーの自画像から取られたものです。本作は、フランスの伝統や古典主義と自分たちとの繋がりを重視した「サロン・キュビスム」の代表的作品である一方、彼の関心は、色彩による構成そのものにも向けられていました。画家はこの後、色鮮やかな《窓》や《円形、太陽no.2》によって、抽象を先駆する新境地を開きます。
8 デュシャン兄弟とピュトー・グループ
画家で版画家のジャック・ヴィヨン(本名ガストン・デュシャン)と彫刻家レイモン・デュシャン=ヴィヨンの兄弟がパリ郊外のピュトーに構えたアトリエには、末弟のマルセル・デュシャンやファランティシェク・クプカ、フランシス・ピカビアといったサロン・キュビスムの芸術家たちが1911年頃から毎週日曜日に集い、彼らは「ピュトー・グループ」と呼ばれました。彼らを中心に組織されたのが、1912年に開催されたキュビスムの大規模な展覧会「セクション・ドール(黄金分割)」でした。その名称からも明らかなとおり、「ピュトー・グループ」は、黄金比や非ユークリッド幾何学といった数学、四次元の概念、そして運動の生理学的分析といった化学を、キュビスムと理論的に結びつけようとしました。 こうした理論が厳密に彼らの完成作に表されているわけではありませんが、運動のダイナミズムの表現は、彼らの作品の大きな特徴のひとつとなっています。ヴィヨンの《行進する兵士たち》では、いくつもの力線に還元された表現で行進という運動が表現されています。またクプカの《挨拶》では、複数の時間が同一画面内に描かれることで動きが示されています。
9 メゾン・キュビスト
1903年に創設されたサロン・ドートンヌは、装飾芸術の振興にも力を注ぎました。1912年のサロン・ドートンヌには、「メゾン・キュビスト(キュビストの家)が展示され、キュビスムや建築や室内装飾への展開する試みがなされます。全体は装飾芸術家のアンドレ・マールによるもので、ピュトー・グループを中心とする多くのキュビストが参加しました。 会場には、デュシャン=ヴィヨンのデザインによる2階建ての建築模型が展示され、また1階部分のみ、3メートルの高さで石膏によって製作されました。幾何学的な装飾が施された入り口を進むと、左右には「サロン(応接間)」と「寝室」が配されていました。「サロン」の暖炉やその上の置き時計はロジェ・ド・ラ・フレネーがデザインしており、壁にはメッツアンジェやレジェ、ローランサンのキュビスム絵画がかけられていました。 マールに宛てた手紙の中でレジェは次のように語っています。「君の考えは我々にとってとても素晴らしい。人々がキュビスムを住居で見ることになるというのはとても重要だ」。新たな時代にふさわしい装飾芸術として、前衛的な造形を取り込もうとしたのがメゾン・キュビストでした。
10 芸術家アトリエ「ラ・リュッシュ」
モンパルナスの集合アトリエ「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」には、フランス国外から来た若く貧しい芸術家たちが集うようになり、最先端の美術運動であったキュビスムを吸収しながら、それぞれが独自の前衛的な表現を確立していきます。その中には、当時ロシア帝国領であったベラルーシから来たマルク・シャガール、ルーマニア出身のコンスタンティン・ブランクーシ、そしてイタリア人のアメデオ・モディリアーニらがいました。 シャガールは、幾何学的に断片化された表現やドローネーの鮮やかな色彩を自作の表現に取り入れ、独特の幻想的な絵画を描いています。形態の単純化を追求したブランクーシは、アポリネールの『キュビスムの画家たち』の中で、キュビストと結び付けられた彫刻家のひとりです。モディリアーニは、1912年のサロン・ドートンヌにおけるキュビスムの展示室に、石に彫られた頭部像の連作を出品しています。 「ラ・リュッシュ」のキュビスムの彫刻家には、アレクサンダー・アーキペンコやジャック・リプシッツもいました。また、レジェも一時ここに暮らし、《縫い物をする女性》など彼の最初の「キュビススム絵画を描いています。
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19世紀半ばのイギリスでは、イタリア・ルネサンスの画家ラファエロ・サンティを規範とする当時の美術教育の方針に異を唱え、中世の美術に回帰し、自然に目を向け用とする若い芸術家たちが登場しました。ミレイはラファエル前派兄弟団を結成した一人で、光の緻密な表現に取り組みました。後年、より自由な表現を追求するようになったミレイは、本作品を制作するにあたり「木の霊が放つ力強い声」に着想を得たと言われています。朝露に当たる光が反射して露が立ち込める神秘的な風景画は、スコットランドの自然の光を捉えようとした晩年のミレイの新たな試みを示しています。
室内におけるささやかな光の表現が世界を知覚するその方法をほのかに照らす
ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916年)は、日常生活を詳細に記録した落ち着きのある肖像画と精神性漂う室内画で知られています。ウィリアム・ローゼンスタインも同様に家庭内の様子を主題とし、家族や友人の肖像画では、人物と同様、周囲の空間も念入りに描写しています。ローゼンスタインが描いた人物の髪や肌、さらには服を照らす光、そして、ハマスホイの作品における室内の壁や床に差し込む光は、二人の画家が光を正確に描写することに細心の注意を払っていたことを示しています。
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コペンハーゲン(デンマーク)にあったハマスホイの自宅の一室を描いた作品です。ハマスホイは17世紀に建てられたというこの家の室内風景を60回以上描いていますが、本作品のように妻・イーダをモデルにした人物が描かれることもありました。壁やドア、調度品に映る光と影の効果で部屋はより立体感のある空間となっています。本作品ではもともと丸い木のテーブルが前景の大部分を占めていましたが、後に再構成し、人物が最後に加えられたと言われています。柔らかな光と物思いにふけるような女性の姿が画面に静寂感を与えています。
光と動きの印象を作り上げる様々な方法に取り組む芸術家たち
ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)は、現実世界の表象から解放され、音楽のように鑑賞者の感覚に訴える芸術を追求しました。画家は色を、動きの感覚を作り上げるための本質的な要素と考えたのです。こうした考え方は、ペー・ホワイト(1963年生まれ)の吊り下げるタイプのインスタレーション《ぶら下がったかけら》にも認められます。ホワイトはこの作品について「抑制された動きの探究」であると説明しています。 ブリジット・ライリー(1931年生まれ)は、知覚の本質を追求するために幾何学的な形体と色彩を用いました。ライリーは、異なる色調の使用を「テンポ」を変えるものだと考え、色の組み合わせによって影を生み出し、それを「形の動きの構造に抗う」ものと考えました。1993年に制作した《ナタラージャ》では、多くの腕を持ち、宇宙の踊り手として描かれてきたヒンドゥ教のシヴァ神をイメージしています。
ドイツの作家リヒターにとって、光は中心的なテーマです。リヒターは1960年代に写真のイメージを絵画で描き移した「フォト・ペインティング」を発表し、注目を集めるようになりました。1970年代以降は、木製の持ち手を付けた自作のスキージ(へら)を使用して、絵画を広げ、削り取る抽象的絵画にも取り組みます。2枚のカンヴァスをつなぎ合わせた本作品では、分厚い絵画の層の間から画家がそれ以前に描いたイメージがぼんやりと見えます。ぼやけた効果は、光の反射を暗示しているかのようです。リヒターは、抽象絵画を「見ることも記述することもできないが、存在していると結論づけられる現実を視覚化する」ものと考えています。
光の再構成 ー様々な色同士の関係の探究
ピーター・セッジリー(1930年生まれ)は、色付き照明が絵画面と反応する作品を制作しました。スプレーを用いて色をつけた画面では、様々な色が同心円状に重なり、そこに向かって複数の色が交互に切り替わる照明が当てられます。これにより、作品の色彩が劇的に変化し、動いているかのような錯覚を観客に与えることができるのです。 キャサリン・ヤース(1963年生まれ)は、被写体の明暗がそのまま再現される「ポジ」にそれが逆転して現れる「ネガ」の画像を重ね合わせることで、色彩の関係、および光と影を反転させます。ヤースは、ポジとネガの間に生まれる差異を観客が隙間、あるいは何もない空間として捉えることを意図しているのです。 ダン・フレヴィン(1933−96年)は、1963年に蛍光灯を用いた光の彫刻やインスタレーション作品を制作し始めました。崇高で精神的なものを連想させるのではなく、光が日常的なものであることをはっきりと示したのです。 オラファー・エイリアン(1967年生まれ)もまた、観客が色の心理的影響や周囲と関係する可能性を探究して、光によって色を知覚できるように働きかけます。モナイ=ナジの動く彫刻やジェームズ・タレル(1943年生まれ)の色彩が空間を満たす投入型の作品は、こうしたエリアソンのインスタレーションの特徴を先取りしていたと考えられます。
宇宙の広がりと儚さ、その中で私たちの居場所を探る方法としての光
アイスランド系デンマーク人のオラファー・エイリアン(1967年生まれ)は、特定の環境下での光と色がどのように知覚されるのかを考察している作家です。《星くずの素粒子》は、天井から吊るされた大きな多面体の作品で、スチール製の枠の中に反射ガラスがはめ込まれてています。半透明の作品はミラーボールのように回転して輝き、その光は拡大された星くずの素粒子、もしくは爆発した星の残骸のような模様を壁に映し出します。スポットライトは作品を照らし、展示室内やそこを通り過ぎる観客に複雑で幾何学的な影を落とすのです。
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本日も最後までご愛読ありがとうございました。あなたの幸せ願っています。
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