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目次
YUKIMASA IDA
「PANTA RHEI」For as long as the world turns
はじめに Introduction
芸術は人のために存在しますが、人自身も日々変化を続けています。変化が普遍だとしたら、その瞬間の美しさを見つめ続けたいという思いから、この展覧会名が生まれました。地球が回り続ける限り、あらゆるものは変化し続けます。 それは決して変わらない唯一のことなのです。
井田幸昌は、「一生に一度の出会い」を意味する「一期一会」の概念を探究した絵画で知られ、日本の次世代アーティストを代表する画家のひとりです。井田の国内初の美術館での個展「Panta Rhei」パンタ・レイー世界が存在する限り」は、造形美術表現のかぎりを尽くし、井田の作品世界へと深く投入できる空間を生み出しました。また、伝統的な美術展示の規範に則り、井田の力強く豊かで多様な作品群をたたえています。本展覧会では、抽象表現および具象表現、絵画と彫刻、そして大小規模の作品を通して、真にその表現世界に没入し、巡ることを可能にしています。 井田幸昌の、表現に対する並々ならぬ探究心と創作意欲によるアプローチは、今日の流動的で、急速な変化を伴う情報が氾濫する世界に似ています。この世界で、井田は先人の残した多様な芸術作品に尊敬の念を抱き、あるときは絵画表現から彫刻表現へ、またあるときは肖像画から風景画へとその表現方法を自在に切り替えながら、あらゆる表現領域の境界を横断し、新たな表現世界を探究しているのです。過去、現在、未来の時間を行き来しながら、井田幸昌は、新しい世代の画家ならではの器用さで、一つの表現領域にとどまるような作品概念を打ち被ります。このような井田の幅広く流動的なアプローチをたたえるこの展覧会は、現代に生きる自由自在なアーティストとしての立場に焦点を当てています。
京セラ美術館
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ROOM 1
肖像画を描く Painting portraits
人は自分の姿を映す鏡だと言われています。かつての画家が担っていたアーカイブとして肖像画を描く役割や重要性は薄れてきていると思います。肖像画を描くこと、それは他人を通して自分自身を知ることです。 その意味では、肖像画に限らず、表現の全ては一種の自画像です。 ー井田幸昌
鑑賞者は、地面に床材として置かれた絵画の上を歩むように促され、井田幸昌の絵画の世界、そして造形美術の表現に物理的に導かれてきました。この部屋での鑑賞者と作品との関わりは、従来の美術作品展示におけるそれとは全く異なります。正面からキャンバスを見るのではなく、キャンバスに迎え入れられるようなかたちで、芸術作品と鑑賞者との新たな関係性が確立されています。キャンバスに近づく行為は、通常、アーティストだけに限定されています。よって、この部屋で鑑賞者は、絵画との特別な距離を全身で体感できるのです。マンゾーニの《世界の台》に似たこの方法は、まるで別の宇宙へと続く絨毯のように、世界の基盤と作品のオーラを変化させます。 この部屋には、顔の一部が崩され、謎めいた表情の肖像画が展示されています。この肖像画は井田幸昌の作品の特徴の一つです。輪郭と細部を隠し、モデルの目、口、そして時には顔全体を覆う力強く厚みのある筆致は、デジタル化が進む現代における身体性の消失、そして今日のメンタシティの集団における個人の消滅をも思わせます。躍動感あふれる力強い筆致は、時間そのものを表現しているようなあ強烈な流動性を創出しています。こうした手法は、まるで疾風のごとく、力強く画面上で波及しており、鑑賞者を「その顔が一体誰の顔であるのかと」いった限定的な作品理解に留めようとしません。「肖像画」でありな柄、ある個人の肖像に留まるのではなく、まさに動的な「今を生きる私たちの肖像画」として、鑑賞者を想像の世界へと連れ出します。井田の肖像画における手法は、フランシス・ベーコンの歪んだ人物像を彷彿とさせます。しかし、井田の作品には肉体的な苦痛や精神的な苦悩はまったく存在せず、むしろ私たちの詩的な一体感、呼吸、動き、そして人生の儚さへのオマージュが表現されています。
ROOM 2
ブロンズ像 Bronze portraits
私は絵画的な彫刻とは何か、彫刻的な絵画とは何かについて、横断的な視点を持っています。粘土を造形する感覚と、絵の具を厚く塗り重ねる瞬間の感覚はどこか通じているように感じます。
絵画的な性質を持つ井田幸昌のブロンズ彫刻は、絵画作品と密接に結びついています。彫刻表現であっても、絵画表現と同じように絵筆で描き出すような処理が施され、その処理は絵画表現の延長にあるものとして自然に作用しています。押しつぶされ、空間で渦を巻くような造形の作品においては、モデルが誰であるかも認識できず、また表情を感じさせなくなっている首像もあります。 井田がブロンズ彫刻に取り込む技法は、彫刻の観点から見れば、彫刻作品としての技量を完全に忘れてしまったかのようにも、彫刻作品としてのモノを創り上げる過程を無視している行為のようにも見えます。しかしながら、彼の彫刻は、従来のアカデミックな彫刻作品の在り方を破壊し、表現を持って自らを解き放ち、彼らしい身軽さで新たな彫刻表現を構築しているのです。アカデミックな流れに逆らうことで、井田は従来の彫刻表現スタイルに抵抗しているとも言えます。 このような抵抗の中においても、井田は依然として過去の偉大な巨匠を参照した上で、彫刻作品の制作にも挑んでいます。「美術史を横断しながらも新たな表現をする」画家、そして表現者としての使命に突き動かされ、強い熱意を持ってあらゆる先人が残した芸術作品を吸収し、自らの表現として昇華しています。具体的には、展示されている彫刻作品のひとつに、潰れて歪んだ顔の教皇が叫ぶ姿を表した作品《Study for the Pope》があります。この作品は、ベラスケスの《インノケンティウス10世の肖像》(1650年)を手直しして1950年代に執拗にシリーズを制作したフランシス・ベーコンを彷彿とさせます。また井田幸昌は、権力者の顔を表現するために胸像が用いられてきた史実に基づき、顔を完全に隠したトランプを女王陛下の横に、更に井田自身を日々取り囲む人々とともに並べてみせます。アンディ・ウォーホルにも通ずるアプローチで、有名無名を問わず地位や身分を分け隔てなく混ぜ合わせ、人々の間にいかなる上下関係を持たずに、出会うすべての人を記録したいという飽くなき欲求を原動にして表現に取り入れています。このようなモチーフの配置を含め、現代社会という大きな研磨機のような世界に共存する私たちを、捉えようとしています。
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ROOM 3
具紹絵画 Figurative paintings
革新とは伝統を引き継ぎ、それを更新することだと信じています。私は過去の偉大なアーティストに救われてきました。伝統的な表現の影響下にあるという事実を無視することができません。しかし、私は現代に生きており、その価値観の中で生きています。その意味で、私自身も前衛的でありたいという願望があります。これらは同じコインの表裏のようなものです。それは私の中では矛盾しておらず、私の存在は両者の架け橋なのです。
井田幸昌の絵画の要素を想起させる黄色の壁に囲まれたこの部屋には、具象絵画群が展示されています。中には、現代の偉大な巨匠の古典を再考した作品が含まれています。美術史を横断するかのようなこの作品は、ベラスケスからピカソに至るまで、「芸術界の偉大な人物たちと対峙したい」という画家としての絶え間ない欲求が現れ、絶えず過去にある芸術作品を振り返って自身の作品に取り込んでいます。そして歴史を遡りながら、あたかも絵を描くことが不可能になりつつあることを暗示し、近代美術における今日の画家の立ち位置について疑問を呈しています。伝統に深い愛着を持つがゆえに、井田幸昌は、超現代的でもあり、伝統と今日の芸術世界を融合させています。 そのほかにも、井田は「モネの庭」を描いたモネから、《The Starry Night》というタイトルを取り上げたゴッホに至るまでオマージュを展開しています。また印象派に何度も敬意を表しながら《Blessing of the Sea》などのほかのテーマや、シンデレラ、白雪姫のような古い民話にも取り組んでいます。
ROOM 4
抽象絵画 Abstract paintings
私の仕事は、自分を求める行為の結果の結果として生まれます。比喩的であろうと抽象的であろうと、それはその日の私にとって最も現実的な状態です。それこそ、私が目指しているものです。 ー井田幸昌
部屋全体を覆う壁紙に、井田幸昌の絵画のひとつを拡大した断片がプリントされ、その上に抽象的な絵画が重ねられています。デイスクトップ上で開かれる複数のタブを模倣したデザインは、まるでコンピュータの画面のようであり、情報を消費する現代の緻密で重曹的な仕組みを彷彿とさせます。井田作品の紛れもない現代性を全面に押し出しています。 抽象的な作品の中には、作品に込められた真の意図を裏切るようなタイトルが付けられたものもあります。厚く流動的な筆致は、描く対象をとらえようと繰り返す探究の表れです。井田は「人の動き、木の揺れを捉えたい」と言い、日没、川、音楽など、瞬間的でつかみどころのないものの象徴を、一見抽象的なスタイルで描かれています。これらの抽象的な作品は、物質、記憶、情報を巡る旅のようなものです。 カタログ化された美術史の観点から、これらは抽象表現であると主張するのではなく、作品はむしろ、絵画歴史の延長線上で、虫眼鏡の中に置かれた細部が膨らんで焦点を結ぶように描かれています。井田の抽象表現は、絵画の中に入っていくような、あるいは、現実を掘り下げ、最も深い、最小ピクセルに到達するようなものです。数値計器で行うズームインとズームアウトの動作に似た方法で、彼の壮大な作品群の断片を拡大したものとも言えます。
ROOM 5
End of today
時間が経つにつれて、大切なものが手からこぼれ落ちていくように、ある日の記憶はどんどん薄れていきます。そこで絵日記《End of today》シリーズを始めました。記憶を絵画に植え付けると、心が開放されることにある日気づいたのです。 ー井田幸昌
この部屋は、肖像画、風景、心象風景を含む365点の井田幸昌が日々綴る日記のような作品群が並びます。そして井田幸昌の度重なる実践と、今の瞬間を記録したいという不変の欲求を称えています。小さく、親しみやすいかたちをしたをした絵画のなかで、井田幸昌は日々、身の回りの人や風景などを記録しています。雪崩の如く押し寄せる情報の中で、大切な何かを忘れてしまう恐れに抵抗するかのように。それは、過ぎ去った出来事の記憶を保持するための時間と戦い続けているとも言えます。今日のデジタルツールでは当然の如く設定されている、一日24時間という形式的な時間。その儚さを想起させるとともに、芸術は無意識から生まれるべきであるとするシュルレアリスムのオートマティスの技法で、彼は自身の絵画世界の輪郭を描き、時を超え、1年間に渡って続く物語を創作します。 時間的な制約と厳しい規律を自らに課す《End of today》シリーズは、井田幸昌の日々の実践を力強く表現しています。芸術作品を構築するように、彼は自分自身の物語を一つひとつ作品として形を変え、毎日の時間を丁寧に刻みます。タイトルとは裏腹に、このシリーズには終わりがありません。それどころか、永久的な時間の流れの中、私たちには常に新しい日々が訪れることと、この先も物語の始まりがあることを予期させているように感じられます。時間の記録者である井田にとって、すべての絵画は小さな絵日記の1ページであると同時に、長く綴られてきた生を表す記録碑とも捉えられます。そして作品を綴り続けることで、変化し続ける世界に生きようとしているのです。
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ROOM 6
Wooden sculptures
斧で細部を破壊し、再度色を付けて構造を描きます。これを繰り返しながら、理想のバランスを見つけていくのです。 ー井田幸昌
この部屋では絵画から再び彫刻へと移行し、木を使った井田幸昌の作品が展示されています。ゲオルク・バゼリッツのように、井田幸昌は彫刻をチェーンソーで彫ってから彩色します。こうして粗く切り取られ創れたポートレートとしての彫刻作品は、原始的なトーテムを思わせます。物質としての木をチェーンソーで切り取り、部分的には細部を破壊して、再び絵の具で描き足すという行為を繰り返し創られています。この手法は自然、歴史、現在との戦いに似た行為であり、儀式的であるとも捉えられます。休むことなく彫刻し、絵を描き続け、芸術には自然・歴史・現在との戦いにおける最終決定力があると宣言しているかのようです。 これらの作品が、逆さまの人物像で美術史をひっくり返した20世紀最大の芸術的アイコンのひとりであるゲオルク・バゼリッツの後を辿っているように見えるとしたら、それは井田幸昌が恐れることなく彼に挑んだ証です。 独特かつ象徴的な方法で、彼は過去や美術史に言及しながらも、そこからよい距離を保ちながら、自らの芸術の道を切り拓いているのです。
ROOM 7
最後の晩餐 Last Supper
実はこの絵には人がいないのです。現在、女性の社会的地位はますます高まりました。人工知能が発達し、人間に代わってロボットが新たな時代を築こうとしています。そんな時代に最後の晩餐を描いたので、現代の人間に対するアイロニーとして表現したいと思いました。 ー井田幸昌
暗闇に包まれたこの最後の部屋には、絵画作品《Last Supper》が証明に照らされて展示されています。この作品は、井田にとって代表的な、そして記念碑的な作品のひとつです。井田は何世紀にもわたって芸術家によって絶えず表現されてきた芸術の有名なモチーフである「最後の晩餐(Last Supper)に、辛辣なひねりを加えて表現しました。 本作品では、イエスとその12人の弟子たちが一見女性のように見えるロボットに置き換えられています。人工知能が人間に取って代割るようになった前例のない時代に応えて、神話を形成する最も伝統的な場面から人類を切り取っています。壁に映された映像のように、この絵はロボットが動いている様子を描いたフリーズフレームのように機能しています。 すでにクールベの《国家のアトリエ》やベラスケスの《ラス・メニーナス》を独自の解釈で描いているのと同じように、井田幸昌は美術史の象徴的な作品に取り組んでいます。何も恐れず、一画家として、表現者として、やりたいことを臆せずに実行する井田幸昌は、壮大な思考を持つアーティストであり、これからもこの先も、スケールの大きな挑戦を躊躇わないでしょう。
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UBARTH
本日も最後までご愛読ありがとうございました。あなたの幸せ願っています。
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