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目次
「岡本直浩展」
やがて自然に還り消えていくもの
UBARTH
上野駅を降りて、公園内を歩くと、一際目立つ建物が・・
岡本直浩は、東京藝術大学で彫刻を学び、楠をつかった木彫作品を発表している。その造形は、人間と植物とが融合したようなものだ。 人間といっても、生ひ繁る葉に覆われたあまり表情のない顔からは、生身の人間を表そうという意図は感じられない。立体の彫刻でありながら人間味は希薄で、むしろ植物と一体となった何か別の存在が掘り出されているように見える。近作では、部分的に穴が開いている場合もあり、徐々に割れて崩れ、葉の切れ切れとともに散っていく、その前段階を表現しているようでもある。 岡本には、絵画におけるぼかしの技法を彫刻で行いたいという思いがあるという。鉛筆と色彩によってグラデーションを作り出す絵画に対し、木を削り彫る彫刻でぼかしを生み出すのは容易ではないが、木を薄くする、一部に穴を開ける、あるいは複雑な葉の重なりを付けることによって、厚みを変化させ、部分的に透けるようなつくり込みを行っている。こうした表現の背景には、人間も自然の一部であることを彫刻で表すという意図がある。両者が混じり合ったかたちと透けを感じさせる部分によって、人間と自然の境界の曖昧さ、風に吹かれいずれ消えていくような軽やかさを生み出している。 岡本が木彫に引き込まれたのは幼少期の仏像との出会いからだという。森林資源に恵まれた日本では、平安時代以降木彫仏の比重が仏像制作の中でも大きくなっていったが、人間を超越した仏は、木という素材をとおし、日本の自然と深く結びついた存在として根づいていった。 岡本は近年、江戸時代の僧・木喰の仏像の再現に挑み、その技法、デザイン等さまざまな特徴を学んだ。日本全国を旅しながら、各地の木材で仏像をつくった木喰上人の軌跡を辿ることは、改めて木との向き合い方を考える機会となった。身近な素材である木を用い、自然の中で生きる人間の存在を見つめ直すこと。それは岡本にとって、木彫仏というかたちで連綿と受け継がれてきた日本の自然との関わり方に与することでもあるとも言えよう。仏が悟りを開いた半眼の顔は、岡本の表情の少ない人間離れした顔に取りいられている。 岡本は、木彫とともに、桃農家の2代目としても日々植物と向き合っている。木と話しながら、暮らしを立て、木を彫る。その日々の中で自然とともに生きるあり方を模索し続けている。 (太田智子/山梨県立美術館学芸員)
溶暗 ようあん
ここはどこ?
あれー 土台まで、葉っぱがびっしり!
足にも、植物が侵食しているようです。でもおしゃれ〜
グラデーションとしての穴なんですね。
顔は後ろから見ると空洞だね。
この構えはまさにジョジョの世界観
耳にドクロが。。俺よりかわいい!?
流透 りゅうとう
えーー なんと壁から顔が生えてきたかのよう
風聞 ふうもん
朧気 おぼろげ
推想 すいそう
揺煙 ようえん
頭は狼(ウルフ)かな?かっこいいー
雲流 うんりゅう
流渓 りゅうけい
異世界に落ちてそうな・・何?
希求 ききゅう
UBARTH
異世界をしっかり感じることができました。ありがとうございました。
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UBARTH
かわいい イラスト!
現在でも使えるデザインじゃの
ご意見番
これを見たかった!!
お前誰じゃ!げげ、本物!?
ご意見番
ちょっと恥ずかしいが、後ろ姿も見れるぞい!
言葉使いも真似されている!
ご意見番
UBARTH
あなたは宇宙人なのですか?
ワレワレハ・・
こら、茶化すな!
ご意見番
お約束通りの反応ですみません。ご想像にお任せします。
縄文人が見たことないものを創造するじゃろうか・・ロマンじゃな!
ご意見番
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ノブ(千鳥)!?
【重要文化財】埴輪 盛装女子(はにわ せいそうじょし)
- 群馬県伊勢崎市豊城町横塚出土
- 古墳時代・6世紀
女子埴輪の大半は半身像ですが、この埴輪は珍しい全身像です。この女性は華やかに着飾っているため高い身分の人物であり、葬送の儀式に参加している様子だと考えられています。筒袖の服の上に、波模様の袖の無い服を重ね着しています。縦縞模様のスカートを履いており、足は隠れています。弥生時代の女性は貫頭衣を着ていました。上下分かれるツーピースの服装は、古墳時代に大陸や朝鮮半島から伝わった新しい文化です。 特徴的な髪型は、女性特有の島田髷です。結った髷を竪櫛で留め、額は鉢巻で締めています。両耳には大きな耳環と小さな玉を付け、首や手首には玉のアクセサリーをしています。左腰には、刀子のような何か提げています。
集落から銅鐸発見!?
突線鈕3式銅鐸(とつせんちゅうさんしきどうたく)
- 三重県津市高茶屋小森町字四ッ野出土
- 弥生時代・1〜3世紀
本銅鐸は弥生時代後期の集落跡から土木工事中に偶然発見されました。掘削によって一方の身の鰭の一部が損なわれたことと、他方の内側にのみ砂土が付着することから、鰭を上下にして埋納されていたと考えられています。集落から銅鐸が発見された極めて貴重な例です。
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日本の仏像のはじまり
インドで生まれた仏教は、6世紀半ばに、中国・朝鮮半島を経て、日本に伝わりました。このとき同時に伝えられた仏像は金属製で、金色の輝きを放っていたとされています。仏像が金属製であったのは、聖なる仏は、超越的な姿をしており、身体から光を発していると考えられていたからです。 仏像の作り方を知らなかった日本では、8世紀ごろまでは中国や朝鮮半島の文化に強く影響を受けて、仏像がつくられました。日本に仏教が伝来した当初は、金属製の仏像が多くつくられ、次の奈良時代には乾漆像という漆を用いた仏像が多くつくられたのも、そのためです。この展示では日本が中国や朝鮮半島の先進的な文化を受けいれ始めた時代の仏像をご覧いただきます。
鳳輦(ほうれん)
- 江戸時代 19世紀
- 明治39年(1906)宮内省(式部職)より引継
鳳輦は天皇が行幸の際に用いる乗り物。この鳳輦は、安政2年(1855)に孝明天皇が新内裏(現在の京都御所)へ遷幸される際や、明治天皇が東京へ行幸される際に用いられました。移動する際には、駕輿丁が肩で轅を担ぎました。
UBARTH
趣のある調度品や建物で異世界に来た感じでした。
今回は一部の紹介でしたが、見所いっぱいなのでまた紹介するぞい!
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UBARTH
本日も最後までご愛読ありがとうございました。あなたの幸せ願っています。
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