目次
Henri Matisse 展
-The path to color–
2023.4.27(thu)-8.20(sun)
東京都美術館
魂に響くゴッホ展へ(東京都立美術館)
ゴッホ展響き合う魂 ヘレーネとフィンセントCollecting Van Gogh2021.9.18−12.12 黄色い家 16年ぶりの来日 期間2021.9.18〜2021.12.12展示場…
Henri Matisse
The Path to Color
UBARTH
今回なんと!嬉しいことに・・
4、5、6章は写真撮影可能なんじゃー
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4 人物と室内 Figures and interiors 1918-1929
1918年、マティスが南フランスのニースに拠点を移したことからはじまる「ニース時代」は、驚くべき多作ぶりが特徴である。1910年代の大型装飾的パネル群に代わって、小ぶりな肖像や室内情景、風景が主流を占め、マティスは、空間配置の点でも現実との結びつきの点でも、以前に比べて伝統的な絵画観に立ち戻る。しかし、常に実験を続けるマティスにとって、この期間は、保守化や休息どころか、これまで獲得したもの一切に対する問いなおしのためのものであった。それが最も顕著に表れているのが、室内の人物という主題を探求した作品群である。 新たなアトリエに転居したのちの1921年からはじまる一連の「オダリスク」ーー肌も洗わな異国情緒たっぷりの衣服に身を包んだ魅惑的な女性像の核心は、このような探求である。マティスは自身のアトリエを、アルジェリアやモロッコ旅行から持ち帰ったり、パリの骨董屋で買い求めたりしたカーペット、屏風、壁掛けなどで飾り、ひとつのミニチュア劇場を作り出した。最初の「オダリスク」である《赤いキュロットのオダリスク》でマティスが取り組んだのは、絵画を構成する、色や形など諸要素の相互作用や関係から緊張を生み出すこと、そしてその緊張から絵画表現を統一することである。ここでの「オダリスク」は、過去の巨匠たちが描いたような、単なるモティーフや図像ではない。マティスは、同じ問題をデッサンでも追求する。鉛筆やペン、木炭を使い分けつつ、画家は色彩とは別の手段で「光」の効果を産み出そうと試みている。 1928年、「オダリスク」の主要なモデルであったアンリエットが去ったことで、マティスはこの主題を打ち切ることを余儀なくされた。彼の絵画制作は危機的状況に陥るが、その中で取り組んだ絵画《緑色の食器戸棚と静物》がひとつの転換点となり、マティスの仕事に根本的な変化が起きることになった。主題や作画の手つきから、彼は、初期の導き手であったセザンヌに立ち戻り、厳密な構成に回帰しようと努めながら、進むべき道を模索していることがわかる。
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東方のエキゾチックな衣装に身に包んだ女性像、「オダリスク」絵画の第1作。以後マティスはこの画題を繰り返し描くことになる。ここでの彼の関心は、背景に人物をどのように配するかにある。ニースのシャルル=フェリックス広場1番地に構えたアトリエはミニチュアの劇場のようにしつえられ、1920年代を通じてマティスのお気に入りモデルだったアンリエット・ダリカレールがさまざまな姿で登場する。
5 広がりと実験 1930−1937
1930年代のはじまりとともに、マティスは、船でニューヨークに渡り、陸路でシカゴ、ロサンジェルス、サンフランシスコを回ったのちに、遥かタヒチへと向かった。この旅行によってマティスは、異なる種類の光が大気を満たす新たな空間に出会い、心身ともに生まれ変わる。その後再び訪れた米国で、マティスは彼の作品の当時最大のコレクションを持っていたアルバート・C・バーンズに会い、その財団の中央にある広間の大型の装飾的な壁画を依頼される。幅13メートルにも及ぶこの大壁画の制作は、マティスに、イーゼル絵画から大がかりな装飾へ移行するきっかけを与えた。これを期に彼は、表現手段をふたたび単純化していくことになる。 このころから晩年に至るまで、マティスの制作にとって複数の女性アシスタントが重要な役割を演じるようになっていく。そのひとりが、1932年から彼が亡くなるまで傍に付き添ったリディア・デレクトルスカヤである。彼女がアトリエの切り盛りを一手に担うようになる1935年春以降、マティスの創造プロセスは大きな変化をみせる。彼はふたたびドローイングの制作に没頭し、形態を動的に変化していく徴しのように扱うことを試みる。挿絵本を手がけるのも同じ時期のことである。 デレクトルスカヤは、《夢》では、組んだ両腕にそっと頭を埋めたうつ伏せの姿で登場する。以後マティスが好んで取り上げるポーズである。同じく彼女を描いた《座るバラ色の裸婦》は、線を消したり単純化したりといった、マティスが表面に加えた作業の痕跡をとどめている。この時期のデレクトルスカヤは証人にしてれっきとした協働者でもあり、1点1点の絵画がいくつもの状態をくぐり抜けて展開していくさまを系統立てて写真に撮り、記録している。マティスにとっても、繰り返し同じモデルを描くことは、その都度彼女と同一化することであった。木炭や鉛筆でのドローイング群では、熟考と吟味を重ねつつ、同じ主題にもとづく変奏を行っている。
モデルを観察することはマティスの創造プロセスの核を成していた。モデルがどのようなポーズを取るかを決めるのは画家ではなく、自分はただ奴隷のように従うだけなのだ、と彼は言う。アトリエの助手でもあったモデルのリディア・デレクトルスカや(1910-98)は、本作でくつろいだ休息の体勢にあるが、これはマティスの目に、真に自然で、コントロールされていないがゆえに最もモデルに適正な姿勢と映った。人物像は画面全体に広がり出しており、情感面で造形面でも開放感がある。
1935年4月に始まった絵画連作の3番目に描かれた本作のモデルも、リディア・デレクトルスカヤである。少なくとも13段階(いずれも写真撮影された)を経たこの作品の制作を、マティスは一回中断したのち再開して1936年に完成させた。たび重なる消去や単純化といった操作の痕跡をあらわにしながら、最終的には徹底した幾何学形態となった。青の背景の前で優美なポーズを取っていたモデルは、亡霊めいた図式的な像に変貌する。
6 ニースからヴァンスへ 1938-1948
1930年代末から40年代初頭は、マティスにとって生活上のさまざまな変化が起こった時期であった。1939年9月の第2世界大戦勃発時には、外国への亡命も考えたものの最終的に拒否。1941年には重度の十二指腸癌を患い、2年にわたってほぼ寝たきりで療養する。このあいだのマティスは、もっぱらドローイングと挿絵に取り組み、自分の創造プロセスに思いを巡らせている。その成果のひとつである連作〈主題と変奏〉では、マティスは、人物や生物を丹念に観察・描写したあと、自由に即興を行っている。 自ら収集した品々ー花瓶、花々、布地、家具ーをまわりに並べ注意深く観察しつつ、マティスは、こういった事物の「本質」を、描く行為を通じて自分の身に沁みわたらせる。1941年9月に一気に描いた《緑色の大理石のテーブルと静物》を、マティスは、目の調子を一定に保つための「音叉」のようなものとみなした。翌月にふたたび同じ事物を描いた《マグノリアのある静物》では、何回も作業を重ね、写真で作品の変遷を記録している。 1943年、ニースに空爆の危機が迫ると、マティスは近郊の丘の町ヴァンスに移り、「夢」壮に居を構える。ここで、のちに『ジャズ』として出版される切り紙絵の連作が制作された。1946年には、最後の油絵連作を描き始める。「夢」壮と庭を主題にした「ヴァンス室内画」として知られる作品群である。マティスはこの連作において、色彩を、その量によって質も変化するもの、広がり出す力を持ったものと捉える。1948年に描かれた《赤の大きな室内》はシリーズ第13作にして最後の油絵であり、マティス絵画に繰り返し現れるテーマー赤、アトリエ、「画中画」ーを巧みに統合しながら、モチーフを2点で1点として組み合わせ、音楽の対位法に相当する視覚的効果をつくりだしている。
「ヴァンス室内画」シリーズを締めくくる本作には、光としての色彩をめぐるマティスの仕事が凝縮されている。事物は2つで1組を成し、アラベスク細工が施された小型円卓と短形の食卓、床に敷かれた2枚の動物の皮が互いに結びつく。壁の筆描きによるドローイングが、マティスらしい赤色に支配された空間に、窓のように異なる空間を切り取る。初期の代表作《赤のアトリエ》とも関係の深い傑作。
「ヴァンス室内画」シリーズの第一作。単純化された背景に、大きな陶製の壺や果物、大理石の小型円卓に載せた花束、骨董店で見つけてきたロカイユ様式の肘掛け椅子など、マティス絵画ではおなじみの事物が配されている。事物は真正面から捉えられて奥行きを示唆せず、本来は隔たった位置にあるにもかかわらず、つながっているように見える。ここでマティスは、色彩の中の新たな空間を創出しているのである。
本作はマティスが「実験のタブロー(油絵)」と呼んだうちの1点で、数ヶ月かけ数十点もの準備デッサンを経て制作された。濃い赤色の背景の上で複数の事物が星型のマグノリアのまわりを取り巻き、ほとんど浮遊しているように見える。1945年にはマーグ画廊で本作を、制作途中の諸段階の写真でまわりを取り囲むという、教育的にしてマニフェスト的な展示を行っている。
1941年に大手術を受けたあと、マティスは回復してドローイングに打ち込み、独自の方法を編み出す。よく知っている事物やモデルを前に、まず「主題」デッサンを木炭で集中して描き、対象を完全に把握する。それから、一連の「変奏」デッサンをペンまたは鉛筆で自由に制作する。この方法で制作された17組158点のデッサンが1冊のポートフォーリオにまとまり、詩人ルイ・アラゴン(1987-1982)の序文を付して出版された。
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UBARTH
本日も最後までご愛読ありがとうございました。あなたの幸せ願っています。
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